八戸市の文化遺産を活用した地域活性化事業 | 八戸三社大祭デジタルアーカイブ

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江戸時代

1720年~(享保5年~)

・明年から法霊御神輿の長者山御旅出許可となる『八戸藩目付所日記』
・御神輿建立のため、御家中御侍中家来まで一人につき十銭づつ寄進するようにとの触れが出される『八戸藩目付所日記』

1721年~(享保6年~)

法霊御輿始めて長者山御旅出あり『八戸藩目付所日記』

1747年~(延亭4年~)~

「出し」と記載あり『法霊御神事行烈』

1774年~(安永3年~)

祭り飾り物として人形組二ツ(代銀三〇匁)注文『永歳覚日記』

1784年~(天命4年~)

・出し銘々店前に飾り置くこと『法霊御□□諸色覚』
・卯年凶作二付御通行御榊、御旗、御神輿、笠鋒斗リ、御徒目付様跡押、出しは銘々の前置『永歳目安録』

1804年~(文化元年~)

「出し」と記載あり『法霊御神事諸事覚』

1825年~(文政8年~)

九月一日 八戸城から神羅神社まで始めて武者行列の通行あり『南部史要』

1833年~(天保4年~)

信玄 式三番双 真田左衛門佐 関羽 金平 弁慶 草刈山王 僧正坊 『法霊御神事行列』

1838年~(天保9年~)

法霊御神事、江戸にて大奥様御遠行のため八月一七・一八・一九日に行う。当年不作により難渋のため出しは銘々家の前に飾り置く『永歳覚日記』

1839年~(天保10年~)

当年も御神事去年の通り略す。出し屋形も銘々の家の前に飾り立て置くこと。ただし、御還りの時は通行あり『永歳覚日記』

1848年~(嘉永元年~)

信玄 太公望 関羽 式三番双 僧正坊 金平 真田 左衛門佐 草刈山王 弁慶 神功皇后 武内宿祢『法霊御神事行列』

1856年~(安政3年~)

信玄公 太公望 神成皇后 武内宿祢 恵比寿 布袋 弁慶 金比羅 草刈山露 『法霊御神事行列』

明治

1869年~(明治2年~)

「出し」と記載あり『法霊御神事行列』

1870年~(明治3年~)

・当年の祭事は誠に渡輿有之のみ『多志南美草』
・法霊大明神号龗神社と改む『多志南美草』

1871年~(明治4年~)

・美濃屋・河内屋・近江屋・古屋・六日町(二台)・十三日町と三日町で一台・廿六日町と十六日町から山車が出る。合計八台『おがみ神社御祭事ニ付人足大略調書書上帳』
・異作に付ては湊鮫の踊子、御供も無之淋敷事也『多志南草』

1884年~(明治17年~)

長者山新羅様のヒモロギが参加し二社祭になる「上杉修八戸祭と大沢多聞」『北方春秋』第一号一九五六

1885年~(明治18年~)

コレラ大流行のため祭り中止「上杉修 八戸祭と大沢多聞」『北方春秋』第一号一九五六

1886年~(明治19年~)

コレラ退散の意味でコレラ祭りと称し盛大に行う「上杉修 八戸祭と大沢多聞」『北方春秋』第一号一九五六

1889年~(明治22年~)

三社による行列となる『三社御祭礼行列帳』

1891年頃(明治24年頃)

大沢多聞の口入りで各町内毎に毎年新しい人形を作るようになる。「作り人形」「つけ祭り」とか呼ぶようになる「上杉修 八戸祭と大沢多聞」『北方春秋』第一号一九五六

1892年~(明治25年~)

兒島高徳 太公望 神功皇后と武内宿禰 鎮西八郎為朝草刈童 八幡太郎義家 布袋 恵比寿 金鳩赤鬼 小栗判官 加藤清正など いずれも皆三十人位の脇付にて此も一様に黒布染の脚半黒の角烏帽子を被り 長者山の賑わいたる葢し奥羽中無比と云うも過言にあらず「陸奥国八戸龗祭」 『風俗画報』

1896年~(明治29年~)

・日清戦争勝利祝賀祭として祭籏・神輿二薹購入、祭りを四日間開催、一関以北青森迄の鉄道賃金を五日間位半減せられんことを鉄道会社へ請求 祭事世話人大沢多聞『東奥日報』八.一五
・八戸駅より盛岡青森間に至る乗客の賃金を半額に減じ・・・風と降雨のため延期『東奥日報』八.三〇

1900年~(明治33年~)

伝染病発生の憂い・・・屋台は各々店頭に飾置し『東奥日報』八.一八

1901年~(明治34年~)

「九月一日より四日間、青森より八戸、盛岡より八戸までの汽車賃割引の件を祭典総代より日鉄会社へ請願せり『東奥日報』八.三一
山車の数は十一個口して・・其他商家は思い思いの見世飾り生花等ありし又従来の山車は各見世先に飾りその・・・・・『東奥日報』九.七

1907年~(明治40年~)

河津屋及各商店にては人形其他の飾物を為して景況を添え・・・昔の所謂山車は年々出さぬようになってきた『東奥日報』九.三

1908年~(明治41年~)

両屋供に河内屋の上杉謙信和吉の神皇皇后と武内宿彌その他の人形は店頭に飾られて景気を添えて居った『東奥日報』一〇.六

1909年~(明治42年~)

本年は電話開通の為高大の旗さし物及び屋台等は凡て改造するの必要あり旁々夫等の為社務所は非常に多忙を極め居れり『奥南新報』八.一九
小中野芸者連の屋台手踊及び近年珍しき剣舞ひ等にて見物の喝采を博したり『奥南新報』九.七

大正

1912年~(大正元年~)

本年は御大喪中に当たるをもって三社とも其礼祭日に於て各社にて例祭を執行の事となりたるより自然取止めとなりたると『はちのへ新聞』九.一

1913年~(大正2年~)

野辺地一戸間の汽車賃二割引を其筋に請願中なるが多分許可せらるべしとの事なり『奥南新報』八.二二

1916年~(大正6年~)

廿六日町(新田義貞の武勇)高さ十三尺巾十尺・・尚旧山車にて参加は十六日町の「草刈山童」大工町加賀平酒造店の「恵比須」三日町の「笠鉾」等小中野鮫両郭芸者連の花屋台も小中野より一台増し三台となり、他に階上村平内鶏舞その他駒踊なども申込ある由『東奥日報』八.三一

1925年~(大正14年~)

八戸町の神明宮、神羅神社、龗神社の所謂三社大祭は兪明八日から三日間執行されるのだが、各社では十分の準備を整へている・・・昨年は大火直後でもあるので名のみの祭礼で八戸三社大祭は至って寂しいものであったが今年は八戸町の人々は何れも馬力を掛けて支度に取り掛かっているから・・・『奥南新報』九.七

昭和

1930年~(昭和5年~)

人手多数を予想し鉄道省久慈間五往復、尻内湊間四往復の上り下り各列車に客車三輌乃至四輌を増結して乗客雑踏を緩和する筈『奥南新報』九.一

1937年~(昭和12年~)

日支事変の戦雲いよいよ拡大しつつある折柄の・・人気を呼ぶ山車は時局柄八幡町の「八幡太郎義家」、鍛冶屋町の「加藤清正」、下組町の「輝く日章旗」の三台だけで・・又街頭の其処此処に千人針を乞う人々のあったのや行列中に国防献金神楽の旗も見えたり・・・『奥南新報』九.四

1946年~(昭和21年~)

平和の象徴として八戸市を□る秋祭三社大祭は涼風そよぐ九月一日から三日間盛大に執行されることになった。戦後初の大祭であり、・・・『デーリー東北』八.二二

1956年~(昭和31年~)

八戸観光協会は三社まつりの山車審査の是非について参加十八町内からアンケートを求めていたが、回答を寄せた十五町内のうち審査を希望するもの十一町内、希望しないもの四町内だったので審査実施と決定した『デーリー東北』八.二三

1958年~(昭和33年~)

山車は運行について、警察側から山車の高さ標準四メートル前後を厳守し、電線切断事故を起こさないようにと要望が出された。『デーリー東北』八.二三

1960年~(昭和35年~)

同大祭は今年から八月二十日(前夜祭)二十一日(ミコシ渡御)二十二日(中日)二十三日(ミコシ還御)のスケジュールで行われる。『デーリー東北』六.七

1961年~(昭和36年~)

1961年(昭和36年)から1989年(昭和64年)まで

平成

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